小学校教員、学童保育指員を経て<杜のがっこう'かしずき'>に就く。 学校・児童館・図書館等で紙芝居、童話、絵本、昔話を子ども達、親に読み聴かせの活動。子ども達にも詩、物語の朗読、朗読劇指導を実践。 図書館で発表の機会を与え、'本'を身近に感じ、'本'を好きになってくれる子どもが増えてほしいと願っている。そして、子ども達自身も身近な生活の中で感じた事、体験した事をお話作り、絵本作りといった創作に発展させていくことを夢見ている。自己表現する事が自信への手がかりになっていくと確信している。 'こども表現活動研究会'で1年間を通して専門分野の教授、講師に様々な表現方法の講義・指導を受ける、'表現力'のPower、重要性を再認識する。 難しい事に取り組むというのではなく、普段の生活の中で各々がお互いを思いやり助け合いながら、温かな心と言葉で触れ合う中で成長していくことを望んでいる。 現在、心理療法カウンセラー講座を受講手続き完了。資格取得のため開始準備・・・から苦戦中・・・!?しかし!意欲満々
学校に行きたい・・・けれども行けない。
人と会話がしたい・・・けれども言葉が出てこない。
社会の一員として働いてみたい!働きたい!
というような思いや希望を誰にも劣らずにたくさん、たくさん持ち合わせているというのにも拘わらず、その一歩を踏み出そうとすると心が、身体が竦み後退りしてしまう。
何時かしら、そのような状態や状況に陥った人を不登校・引きこもり・ニートなどと呼ぶようになった。 それぞれ名称に相違はあるがその根底に流れる原因に共通性を感ぜずにはいられない。
全てに該当する訳でないが、何かしら'生き方'や'人間'あらゆる物事に対し過敏、且つ真摯で頑なな心的拘りが外面表現された結果なのではないかと考える。
様々な家庭・学校・社会環境が起因して表面化してきた現状を行政や教育関係機関が長い間、建前だけの謳い文句を掲げ回避してきた故、これだけ大きな社会問題になったと言っても決して過言ではないと思う。
ある種、特有の形でしか'自分'を表現出来ず'殻'に閉じこもる生活を余儀なくされた'被害者'であるかもしれない子ども達に今こそ親、教師、子ども達に関わる人間全てが支援の手を差し延べる必要があるのではないかと考える。
同時に蝕まれた社会構造から生まれたこの不登校・引きこもり・ニートという言語自体に蔑視や差別のニュアンスを感じ、文字や言葉にする事に常に戸惑う自分がいる。
まだ自然が十分に残されている広大な大地の杜の'小さな小さながっこう'で現代社会では考えられないような、牧場というあらゆる'生きた''生命の漲る'贅沢な学習教材が提供される恵まれた環境を想像してみてほしい。
一緒に子ども達と土を耕し、種まきをし、育て収穫をする。肥沃な土地で育てた食材で調理する。それはやがて食育にも繋がっていく。 牛の搾乳、餌やり、清掃。子牛の誕生を自分の眼で見つめたことで'命の学習'を体験出来る。 自然と共存しながら学習した心と身体は'人間疎外'を克服する力となり、自らが作った硬い強固な殻を打ち破り現実に羽ばたいていける筈だと、この地を訪れた時、果てしなく拡がる大地と空、杜の木々の間を通り抜け届けられる心地よい風に教えられた気がする。
「都会はすべて人類を破滅に導く淵である。何代か経つとそこに住む人達は滅んでしまうか衰え廃れてしまう。そこで都会に住む人を交替させなくてはならない。その交替させる分を補うのがいつも田舎である。」数百年もの前に フランスの思想家ルソーは{エミール}の中で明記している。
残された僅かかもしれない時間を我が子に成し得なかった後悔も含め、ひとりひとりの子ども達との関わりの中で'いきいきと生きる'ということを丁寧にゆっくりと編みあげていけたらと・・・これだけ歳を重ねた今改めて思い、限りない可能性を秘めた大切な宝物そのものである子ども達との出会いに胸を膨らませている。